手引きする人がいなければ、どうしてわかりましょう

柏木 信昭

 こんにちは。春の暖かさが心地よい復活節の時期を喜びのうちに歩まれていることでしょう。
 先日、ある方からコーヒーショップに、全員が名札をつけて参加してはどうか、という提案をいただきました。「毎週コーヒーショップに来ているけれど、顔と名前がわからない人が多いので、名札があれば交流が深まりやすいと思います」と仰いました。私は、この提案は一度実行に移してみたいと思っています。しかし、私の中で若干の違和感がありました。私たちは、もうすでに家族です。名札をつけると他人のようになって、改まった感じになってしまうのでは・・・。名札をわざわざつける必要があるのかな、と考えたのです。しかし、この私の考えには大きな落とし穴があります。
 「もうすでに家族・・・」と感じている人は、渋谷教会では決して多くありません。特に今、教会委員長をしている私は、祖父の代から渋谷教会にいる幼児洗礼の中年男性です。子どもの頃からあまり大きなブランクなく教会に来続けているので、教会歴が古い年長の方は、私を幼少の頃から知っています。私には「渋谷教会を訪れる」という経験がありません。ですから「これから家族になる」という経験がなく「もうすでに家族」という意識しか持っていないのです。けれども、教会にいるほとんどの方は、「教会を訪ねてきた方」であり、意識的に「家族になろう」としている方が多いと思います。
 「渋谷教会の家族になる」というのは、簡単なようでいて簡単ではありません。「自分のことを覚えてくれている人がいるか?」「自分を喜んで迎え入れてくれる人がいるか?」、教会に来始めた人は一番気がかりな事だと思います。私は、コーヒーショップの時、打ち合わせや既に知っている人への挨拶ばかりで、「迎える」役割を十分に果たしていませんでした。教会を訪れた人がそこにいるのに、見えていなかったのだと思います。そこにいるのにいないかのように扱われてしまっていると感じさせてしまったかもしれません。
 皆が内輪で仲良くしている場所ほど、初めての人が独りで入りにくい場所はありません。私は家族の一員だと思ってしまうと、「家族になろう」している人の存在が見えなくなってしまうかもしれません。
 ミサの後、主任司祭と事務的な打ち合わせをしようとすると、一言あります。「私は、信徒を迎える仕事を今、したいのです。あまり拘束しないでください」と。まさに、マリアとマルタの話のようです。(ルカによる福音書10章38-42節)
 また「家族になる」ことより、「カトリック教会の雰囲気に触れてみたい」、「イエス・キリストの教えが知りたい」、「ミサに出て、ホッとするだけでいい」という人もいらっしゃいます。「渋谷教会は冷たいと言われるけれど、あまり信徒に干渉してこないから居心地がいい」と言う方もいらっしゃいます。神さまとの付き合い方は人それぞれです。そのあり方は十分に尊重されなければならないでしょう。
さて、フィリポとエチオピアの高官の話を覚えていますか?エチオピアの高官が、エルサレムに礼拝に来た帰り、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していました。すると主の“霊”が、フィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言いました。フィリポは走り寄り、「読んでいることがおわかりになりますか」と聞くと、「手引きする人がいなければ、どうしてわかりましょう」と、高官は言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼みました。そして、フィリポはイザヤから説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせました。そして、旅の途中、水のある場所で、洗礼を受けることを高官は望みました。(使徒行伝 8章26-40節)
私がフィリポのようになれるかどうかは別にして、フィリポに憧れを持っています。教会は「憧れ」と「魅力」によって成り立っています。私は、学生時代、ボーイスカウトの指導者の先輩から言われました。「教会のスカウト活動は、子どもが神父様に憧れて、ミサごっこをするようになるようやっていかなければならないんだ」と。
信仰は神様との孤独の交わりによって育まれますが、また共同体の支えによらなければ神様と出会うことは出来ません。神様は私を創造されたというより、この世界に招き、歓待してくださっています。ホストであるイエス様に憧れながら、私たちも「招く教会」を作ってまいりましょう。