「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」

柏木 信昭

 私たちは5月を聖母マリアと共に過ごしてまいりました。聖母マリアは、天使ガブリエルから「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶されました。そして、エリザベツも「あなたは女の中で祝福された方です」と声高らかに言い、マリアも「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と答えました。
 しかし、私たちから見ると、聖母の生涯は決して「幸せ」と一言で表現できるものではありません。天使ガブリエルの言葉を聞いた時、マリアはこの言葉に戸惑い、「いったいこの挨拶は何のことか」と考え込みました。「どうして、そんなことがありえましょうか」と聞かずにはいられない受胎告知のお告げがあったからです。イエスが12歳になった時、奉献からの帰り道で、心配して捜したこともありました。そして、わが子がかけられた十字架にたたずんでいるマリアの姿を思い出すと、天使ガブリエル、エリザベツ、マリア自身の言う「幸せ」と、私たちが思う「幸せ」の間には大きな隔たりがあるようです。
 ところで、イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と話した後、「だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と話されました。
 「完全な者」とは、どういう意味でしょうか?私たちにとって完全な者とは、「非の打ち所のない人格」「適切な判断力」「社会的な評価と相応の地位」「業績」のそろっている人をイメージします。ところがイエス様を実際に見ていた人々は、その姿に対し「罪人と食事を共にする者」「酒飲み」「律法を破る者」という評価を下していました。
 私たちとイエス、マリアの心の隔たりはどこにあるのでしょうか?それは、社会的な常識や自分の経験に基づいた完全さではなく、「神様の目から見た完全さ」を求めていたことにあります。人の目から見れば愚かでも、神様の目から見れば、「知恵の賜物」がある事を、イエス、マリアは知っておられます。その場で全てを理解出来なくても、主に身を委ねる心を常に持っていたのです。
 私たちが、常識的、経験的に考える完全は、「不完全」「欠如」「未熟」の意識を同時に呼び起こします。「自分には、まだこれが足りない」、「あの人はあれが出来ていない…」、自分の基準によって作られた完全主義は不満、嫉妬、裁きなど、私たちを罪の闇に引きずり込みます。この闇の中では、放蕩息子の父親の想い、夕方5時ごろ雇われた労働者にも、朝から働いた労働者にも1デナリオン渡す主人の想いが理解できないでしょう。
 マリアの「幸せ」、イエスの「完全」は、受胎告知の「お言葉の通りになりますように」、ゲツセマネの園での「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」、十字架のイエスに向かって、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と罪人が願った場面を静かに味わうことによって、神に悟らせていただけるでしょう。
 教会は、何もなくても豊かなところであり、欠けているところは神の栄光が顕れるためにあるのです。