「亡己利他・もうこりた」
田中 信明 神父

 わたしたちは、何かの価値観に基づいて生きているでしょう。まして信仰者においてはそうでありましょう。しかし、その価値観が必ずしも世の多くの人々と同じではないことを経験します。そこでただ、誰とも喧嘩したくないという理由だけであらゆることをよしとしたり、同じと考えてしまうのはどうかなと思います。信仰にかぎって言えば、信仰の深まりに伴って人との親交も広がり深まりますが、自分の信仰を本物として生きることが問われます。垂直的には神とのかかわりを深めること、水平的にはすべての人を兄弟姉妹としてかかわることです。その交差するところに自分が立っている。そこに立っている自分はまた垂直的・水平的かかわりに開かれていくことではないでしょうか。いずれにしても「自我」を捨てて、言い換えれば、遠慮して(昨今、この言葉は日本語から消えつつあるようで寂しいかぎりです。)「自己主張」「自己顕示」など「自己中心」の世界から脱出することでしょう。これを書いている今、「愛の多少と赦し」のルカの記事を読んでいます。愛のあふれには、愛が先か赦しが先かの議論はないでしょう。
 数年前に、比叡山を訪ね、根本中堂に大事に伝えられ点されている伝教大師・最澄の法灯に参りました。一団の参拝者の去った後でした。若いお坊さんが話してくださいました。“皆さんお参りに来てくださるのはありがたいことですが、ここへいらっしゃると我先にと先を争うのですわ。伝教大師様のお言葉に亡己利他(もうこりた・己を忘れて他を利する)、つまり、自分より先に他の人をどうぞ、とあるのですがね”。
 このお話を聞いて「もう懲りた」とは思わなかったが、イエスを通じて神がわたしたちに問いかけられているのも、「自分を捨てて、しかし、自分の十字架をになって、従え」ということではないでしょうか。時々、十字架が重くて「もう懲りた」と叫びたくなる時もあります。その時にこそ、ありのままの自分が現れてくるのではないでしょうか。文句ばかり言う自分、十字架から逃げようとする自分、そしてある出来事を十字架とする自分などです。その時、イエスの歩んだ道と重ね合わせたならば、わたしの「もう懲りた」の叫びは変わります。共に歩んでくださるイエスの歩みと歩調が合ってきます。笑いと共に。
 先日、友人のお坊さんを訪ねました。この人はアウシュビッツから広島まで「世界平和行進」を成し遂げたお坊さんです。ニカラグア紛争の時、現地入りし、教会の前で毎日、7年間も、太鼓を叩いて平和祈願したお坊さんです。現在、彼は90歳になるお母さんの介護をしております。もともとカトリックの家庭で育ち、ご両親はカトリック、彼はお坊さん。「かあさん、神父さんだよ」「かあさん一緒に祈ろう」「かあさん、ご飯だよ、美味しいかい」「かあさん、さぁ寝よう」「かあさん、ほら好きな音楽だよ」。数年前に脳梗塞で倒れ話すことも歩くこともままならぬ彼の母の一挙手一投足を支えます。「神父さん、母と一緒にお祈りして、おれ晩御飯作るから」。カトリックの家庭祭壇と彼の師匠の祭壇が並ぶ前で車椅子のおかあさんと祈りました。一泊させていただきました。毎日曜日、改装した車でミサにお母さんをお坊さんの正装で教会へ連れて行きます。あぁ、信仰はどう生きることなのでしょう。「亡己利他」!
 先日来日したドミニコ会の前総長、ティモシー・ラドクリフ神父は9年間の在任中、3分の2はローマ本部から、世界中、紛争のある所には生命をかけて、説教し、飛び歩き続けました。現在も1年のうち8ヶ月は世界中を飛び歩いています。「亡己利他」の旅。総長に選ばれて最初のプレゼントは、裾のすり切れたズボンの代わりの新しいズボンでした。彼をからかったら、「田中、スーツを買って」。電車の中で面白い格好の女子高生を見たらその前に座り観察。「田中、アレと同じソックス買って」。一杯のスコッチ・ウィスキーで時差を調整しユーモアで人を楽しませ、自分も楽しむ「亡己利他」の旅。「田中、今度も大いに笑ったね、日本の若者には希望があるよ」と言って帰国しました。さて、次はどこへ旅立つのかな。