日本では、まだ良く知られていませんが、「善きサマリア人の法」というのがあるのをご存知ですか?窮地の人を救うために善意の行動をとった場合、救助の結果につき重過失がなければ責任を問われないという趣旨の法です。例えば、何か事故が起きて、傷病が出た時に、人救命手当を施して、蘇生後に何らかの身体傷害が残ったとしても、善意に基づくものであれば民事上も刑事上も免責されるというものです。
もしこのような場面に立ち会ったとき、私ならどうするか?善きサマリア人のように、すぐ助けて、看護すると答えたいところですが、別の考えもよぎります。まず、自分は医療の専門家ではないので、本当に適切な処置が出来るのか、もしかしたら何かの過失で自分は罰せられる立場に追い込まれないだろうか?この人のためにかえって事態を悪くする可能性があるのなら、とりあえず様子を見ておいたほうがよいのでは?私としては、「悪意はないつもり」ですが、一歩踏み出せない様々な「アイデア」が浮かんでくるのです。
ルカ福音書の「善きサマリア人の話」を読む時、おいはぎに襲われた人を助けなかった祭司もレビ人も、「なんてひどい奴だ」と、私は簡単に非難できません。日ごろの生活の中で、問題に直面することを避けたり、先送りしたりすることがたびたびあるからです。彼らも決して「悪意はないつもり」だったと思います。祭司もレビ人も、多くの宗教的な義務を抱えており、それは「神様のためにしている」と考えていました。特に衛生的な規定、不浄に対する規定を守ることは彼らの「信仰宣言」でした。祭司やレビ人の側に立った論理をよく味わわないと、このたとえ話のメッセージを汲み取ることは出来ないでしょう。
そして、その上で「善きサマリア人」のような隣人になりなさい、とイエスは私たちに訴えていることを心に刻まなければなりません。
ところで、「善きサマリア人の話」は、イエスと問答していた律法学者が、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とはだれか」と問うたことに対する彼の答えです。
「私の隣人とはだれか」という問う時、私たちはあることを前提にしています。それは、だれが私の隣人ではないか」という問いとセットになっているのです。つまり、「隣人を愛する」とは「隣人でない人を愛さない」ということが含まれるのです。イエスは、そのことを知っていました。だから律法学者に問いかけるのです。「だれが隣人になったと思うか」と。神の望みは、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」なのです。
「誰が○○なのか?」という問いに是非気をつけたいと思います。そこには、「私以外の誰が○○なのか?」という言葉が抱き合わせになっているからです。
渋谷教会の信徒は、皆教会の仕事に関しては善意のボランティアです。本来なら全員がやらなければならない仕事を「私が○○します」と言って引き受けてくださっている方によって、維持されています。教会の掃除、特にトイレ掃除も、そのような形でなされ、私たちがその恵みに与っていることを心にとめておきたいと思います。
悪意はないつもりでも、一歩踏み出せないでいる私に自戒を込めて今月はこの文章を書きました。
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