二人の主人:神様とお金、どちらが主人?
ヘロニモ神父

 9月16日に放蕩息子のたとえ、9月30日に金持ちと貧しい人ラザロのたとえ、9月23日の福音では、「神に仕えながら、富に仕えることはできない」とイエスは答えました。9月の典礼は、私たちにお金について考えさせます。お金はよいものか悪いものか、どちらでしょうか。
 イエスはお金が悪いと言っているのではありません。お金を使うことが悪いのではなく、お金に仕えることが悪いと言うのです。お金は、人間生きるための手段ですが、人を支配するものではありません。イエスが言いたいことは、お金はダメなものではなく、ダメなのはお金を利用する「人間の心とその意向」であり、だから、人間の心が支配されないようにお金に注意しなさいと忠告しているのです。
 旧約聖書には、お金や財産を持って生きるのは神の祝福のしるしと書かれています。もし神様が望むようにお金を使えば、人間はたくさん良いことができる。家庭を守り、教育を受け、文化的な生活もでき、貧しい人や教会を助けることもできます。お金のおかげで社会は発展し、すべての人は生きるために必要なものを手に入れることができます。
 しかし今日、人は、あこがれるものを何でもお金で買うことができると思っています。権力、社会的な影響力、文化、教育、快楽、安全、慰め、美しさ、喜びなどもお金で手に入れるつもりであり、「幸せ」と「心」以外は何でもお金で解決できると思っています。
 人生の目的が、もっとお金を稼ぎ、もっと楽しむことになってしまうと、お金は神様のライバルになります。物への人間の欲求は絶対に満たされることがないので、人間は消費する者になります。すべてを便利さとか自己満足という観点から見るので、愛することや自分を捧げることを忘れてしまいます。
 このように、人間の心の中でお金は神様のライバルになり、お金が人間の心を奪ってしまい、神が作った人間性はなくなるのです。しかし信者は、お金か神様の魅力か、どちらかを選ばなければなりません。人の心の中で、神とお金のどちらが原動力になるか、戦いが起こります。イエスの教えは、人間は両方に仕えることができないから、どちらか一方と深く関らなければならないというのです。
 「神に仕える」ことは、全面的に神に頼り、従い、信頼し、神の慈しみを信じることです。神の愛を知らないと、人間は幸せになれません。神に作られた人間は、神なしに人間らしくなれないのです。
 また「神に仕える」ことは、神のみ旨に従って人々を愛することです。すべての人が、一人ひとり生きるに十分なものをいただき、すべての人が、一人ひとり生きるに十分なものをいただき、人間らしく生活すること、これが神様の望みです。ある人は、有り余るほど持っているのにもっと得るために野心を持ち、他の人は、生きるために必要なものすら持っていないというのは、問題です。神様はこれを望みません。
 「お金に仕える」人は、お金を得るために、心も、良心も、価値観も人間関係も犠牲して、お金を稼ぐために命さえも捧げます。お金が人生に優先することになります。これは偶像崇拝です。お金への執着に魂を奪われた人は、自分の利益だけですべてをはかり、冷たい人間になります。その人は神様とも人々とも正しく関わることができないし、愛することもできないのです。
 お金のためにどれほど多くの人が苦しんでいるか、だれでも分かるでしょう。お金のために家族内の争い、友達の裏切り、不正な行い、社会の紛争、暴力、憎しみ、戦争、堕落、差別などがあり、お金のために、人は殺し、裏切り、他人を売買するのです。
 現代、無神論者が多い一つの原因は、お金の魅惑にあるそうです。お金と結ばれた人は、神から離れてしまい、その人の心に神は入ることができません。消費主義がその人の宗教になり、その人は、愛そのものである神を受け入れないわけです。その人は商売の感覚だけで神に近づき、祈り、儀式、ミサを捧げて、神の恵みを買い取るつもりです(ご利益宗教)。その人は無償で受ける神の愛も、無償で与える人間同士の愛も知らないからです。
 福音は、不正な富をどのように得たかということよりも、生きている神から人間を離そうとするお金の力に注意するよう促します。人はお金への執着によって人間性を失うわけです。貪欲に自分の利益だけを求める人は、神ではなく、お金と富を自分の人生の土台にしてしまうのです。人は、人生の目的を富に置くと、神様に従うことができません。
 富に囚われた人間の心は、氷のように頑なで冷たいものです。他の人の悩みや苦しみを無視し、神様の声も響かないし、その人の心に無償の愛や兄弟愛は存在しないのです。富に囚われた人の心には、愛する天の父のための場所はありません。
 このように、消費することに心を囚われている者は、連帯責任を感じないものです。消費しながら、貧しい兄弟に心を配ることはできない。「富に心を囚われた人」には、他の人々の必要性や乏しさが見えず、その人は、物を買い占め、快楽を求め、自己満足のために人を利用して生きるわけです。ですから兄弟愛を願っている神を拝むことはできないと思います。人間の心の中で常にそのような戦いが起こるのです。
 すべての人の父である神に祈り求めながら、他の人の不幸(悲劇)に中立の立場をとり無関心でいることは許されないのです。人の苦しみに対して何も助けず(お金も捧げず)、「この試練の間、あなたのために祈ります」と慰めの言葉をかけるだけというのは認められません。また、たまに小さい援助することも十分ではありません。
 イエスが教えてくださることは、これです:お金は人生の目的ではなく、ただ一つの手段です。正しく使うことは良いのですが、お金の奴隷になったり、利己的になり他人から離れて自己に閉じこもる危険に陥らぬように気を付けなさいと、イエスは忠告しています。
 「自分の利益とお金に囚われ」ながら、すべての人の父である神に忠実を守ることは無理なことです。神の子供として生きることはただ一つ、他の人々の兄弟として生きることだけです。だから、自分の富、お金、利益だけのために生きる人は、自分の兄弟のことは心配しないので、神の忠実な子供になりません。
 キリスト信者として生きることは、イエスのように物事を判断し、行動することです。人の苦しみに対して連帯責任を持ち、自分の物を分ち合うことです。有り余る生活を楽しみながら、自分は「霊的に貧しい者だ」と言うわけにはいきません。また、「自分は金持ちではない」と思い、経済的にもっと困っている人を無視することはできません。
 「お金に囚われた人」の心は麻痺しているために、他の人々の苦しみを無視し、そうしているうちに神様から離れてしまうのです。こうして人間性を失っていきます。隣人と神を愛する人は、いただく愛(恵み)とあげる愛(恵み)によって成長し、本当の人間になっていくのです。