渋谷教会の皆様、いよいよ11月を迎え、典礼暦の締めくくりの頃となりました。11月は死者の月です。神様の下で安らぎを受けている方々を思い起こしながら、共に祈ってまいりましょう。
また、11月18日から25日は聖書週間です。聖書の言葉により触れていきたいと思います。私たちは、聖書を自由に読むことが出来ますが、理解するために、いくつかの問題があります。聖書の世界はローカルなものですから、私たち日本人の文化では、ピンとこないイメージやシンボルがたくさんあります。解説書などを読みながら、細かいニュアンスを掴んでいかなければなりません。また、田中神父様が「不正な管理人」の説教の中で指摘されていたように、日本語に翻訳する時に生じる意味の微妙なズレも、意識的に学ぶことによって、相応しく読む必要があると思います。
例えば、「心の貧しい人は、幸いである」という言葉は、この訳では、本当にイエスが言おうとしていることを伝えていません。心が貧しいというと、心が豊かであることの反対のイメージが浮かびます。心の豊かさとは、優しさ、情の厚さ、情緒豊かさ、肯定的な価値観などを思い起こします。心が貧しいというと、意地汚い、思いやりのないということが 思い起こされるので、なぜ「心の貧しい人が幸い」なのか、ピンとこないと思います。
「心の貧しい人」をギリシア語から直訳すると、「霊において貧しい人」となります。これは「へりくだった心をもち、自発的に財産を放棄し、自分に頼らずに神の助けに信頼する人」のことです。「貧しい」という言葉は、聖書では物質的に貧しいことに加えて、貧しさに苦しむがゆえに神の救いを必要とし、それをひたすら待ち望む人といった意味合いでも使われます。フランシスコ会が訳した聖書では、「自分の貧しさを知る人は幸いである」となっています。
また、聖書を読んでいると、書いていないけれども、これはどうだったのだろうと思うことがあります。例えば、聖母マリアは、福音書によく出てきますが、聖ヨセフはイエスの幼年時代以外登場しません。福音書には、ヨセフの人生の終わりに関する記録はありませんが、伝承によれば、ヨセフはイエスが公生活を開始する直前に亡くなったそうです。もし、そうだとしたらイエスはヨセフの死をどのように受け止めたのか、その心に触れてみたいと思うことがあります。盲人の目を開け、ラザロを復活させたイエスは、自分の父の死を静かに受け入れました。イエスの中で奇跡、復活とはどのようなものだったのでしょうか?その心に触れることは、「神の栄光」に触れることになるでしょう。私たちはイエスをどこまで知る事が出来るのでしょうか?一生かかっても全てを知ることは無理なのかもしれません。しかし、イエスを愛する事には希望が持てます。なぜなら、愛は相手の神秘に惹かれることだからです。
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