渋谷教会の皆様、あけましておめでとうございます。本年も、共に主の道を歩んでまいりましょう。年の初めというのは、生活の原点、初心に立ち戻る時機です。典礼も「主の公現」「主の洗礼」と、イエス・キリストの公生活の始まりへと、私たちを誘います。私たちも「神様との出会いの始まり」に思いを馳せてみたいと思います。
皆様は、洗礼を受けた瞬間のことを覚えていらっしゃいますか?それは、神様との生活の始まりの原点というべき瞬間でしょう。また、洗礼を受けようと決意した瞬間を覚えていらっしゃいますか?それは信仰生活を踏み出した瞬間といえるかもしれません。
イエスも、公生活の始めに、ヨルダン川に向かい、洗者ヨハネから洗礼を受けます。しかし、この洗礼の前に、おかしな問答が繰り広げられます。ヨハネはイエスに「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか」と洗礼を思いとどまらせようとしたのです。ヨハネの気持ちはよくわかります。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とイエスのことを話しておられたのですから。
しかしイエスは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と、ヨハネを諭します。そして、ヨハネはイエスに洗礼を授けました。
ヨハネとイエスの対話をはたで見ていると、興味深いことを感じます。イエスは、ヨハネの洗礼が何かを知っているが、ヨハネは自分が授けている洗礼が何かを、イエスほどは分かっていなかったということです。ヨハネは、イエスが誰かをすでに知っており、自分の役割が何であるかを自覚していました。キリストの到来の準備のためにしていることがイエスも洗礼を受けてしまうと主客転倒してしまいます。だからこそ、イエスを思いとどまらせようとしたのです。
しかし、イエスから見れば、ヨハネの洗礼は神様から来るものであり、自分が受けるに相応しいものだったのです。ヨハネは、イエスに洗礼を授けることにより、「神様から見て、自分は何者なのか?」を発見したに違いありません。そして、自分の授けている洗礼の意味も、イエスを通して再発見したのです。
ヨハネほどの人でも、イエスとの出会いによって、神様のみこころに改めて気づかされます。聖母マリアもイエスを通して、神様を見ています。イエスと出会うということは、神様に出会うことであり、自分に出会うということなのです。
イエスを見つめていると、神様に何のとらわれもなく一致している自由を感じます。この自由こそ、私たちが身につけたいものです。
数年前、私が玉川通りと明治通りの交差点で信号待ちをしていた時でした。自転車に乗っていた私の隣にすっと外国人の男性が来ました。その方は、テレビによく出ている大道芸もする数学者でした。すると、まだ信号が赤なのに道の真ん中に悠々と歩き出しました。車の往来が激しいのに、うまく避けながら、どんどん横断していきます。不思議なことにクラクションを誰も鳴らしません。あっという間に渡りきって、駅のほうへ消えていってしまいました。私はビックリしました。なんと大胆な!けしからん!しかし、なんと自由な発想をする人だろう!決してまねしようとは思いませんが、規制と自由について、何か気づかされる出来事でした。
「洗礼」とは、今までの自分から抜け出して、神様の懐に思い切って飛び込むことです。そこから頂いた感動と喜びと驚きを、改めて思い起こしてみたいと思います。それはイエスの自由の深さと広さに与ることになるでしょう。そして、使徒パウロの洗礼の様子も思い起こしてください。アナニアとイエスの関係と洗者ヨハネとイエスの関係が重なり合っており、「洗礼」とは、本当は「神様が私を迎えてくださるしるし」であると悟らせていただくことが出来るでしょう。
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