3月に入り、四旬節も半ばを過ぎました。まもなく聖週間を迎えます。主の受難を見つめながら、「主の復活」に向けて、心身を整えてまいりましょう。
昨年、渋谷教会の聖堂のために、カルペンティール神父様が十字架の道行きを描いてくださいました。黙想のためのテキストがありますので、是非祈ってまいりましょう。
イエスの受難を見つめる時、十字架の道行きに関わった人々の姿も見つめる事は、多くの霊益があると思います。私は、キレネ人のシモンの姿を時折見つめます。イエスが力尽き、十字架を荷うことが出来なくなった時、そこに居合わせた彼は、人々に捕まり、十字架を背負わされ、イエスの後ろから運ばされました。田舎から出てきた彼は、どんな気持ちで十字架を背負ったのでしょうか?何を見出したのでしょうか?また、イエスは、シモンにどんな思いをかけたのでしょうか?
アリマタヤのヨセフは、弟子すらも逃げ出した状況で、あえてイエスの遺体の引取りを申し出ました。彼を「金持ちでイエスの弟子」「身分の高い議員」「神の国を待ち望んでいた」「善良で正しい人」「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と福音記者は伝えています。ヨセフは、十字架の道行きの中で、何を思い巡らしていたのでしょうか?
十字架からおろされて、聖母マリアに抱きかかえられたイエスの姿は、「ピエタ」として有名です。クリスマスの時も、イエスは聖母の胸の中にありました。しかし、二つの姿はあまりにも対照的です。この対照こそ、神の救いの始まりと完成の神秘なのです。
イエスの愛弟子ペトロは、大祭司の家で、連れて行かれたイエスの様子を伺っていました。ところが、人々に「イエスと一緒だった」と言われ、3度「イエスを知らない」と答えてしまいます。3度目の言葉を言い終わらないうちに突然鶏が鳴きました。「今日、鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、ペトロは激しく泣きました。
イエスは、ペトロの「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」という言葉に答えて、離反を予告しました。ペトロが自分の覚悟を訴えたのは、イエスが「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と懇切に話したからです。この言葉は、あなたに誘惑と苦難が訪れ、躓いても、私の祈りが神に聞き届けられ、あなたは兄弟たちの力になる、と言う意味です。ペトロの覚悟は、イエスの言葉に何も応えていません。イエスが「信仰が無くならないように祈ってくださる」、これほどの希望があるでしょうか。ペトロはまだ、その事に気がついていないのです。
キレネ人のシモンのため、アリマタヤのヨセフのため、聖母のため、イエスは十字架によって信仰を無くさないように祈っています。十字架とは、神ご自身がどれほど絶望的な状況にあっても、けっして希望を失わず、わたしのために祈ってくださっている「しるし」です。
信仰は、わたしの覚悟だけによるのではなく、苦しみの極限にある十字架の上から、たもとにいるわたしのために、イエスが祈ってくださることによっていただくことが出来るのです。
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