これは人にはできないことである。しかし、神はすべてのことができる。
柏木 信昭

 5月は聖母月です。聖母マリアの姿に倣って、主の道を共に歩んでまいりましょう。 聖母月の信心はヨーロッパ近世からのもので、18世紀のイタリアで盛んとなりました。5月は、春の訪れとともに生命のエネルギーの力をもっとも感じさせてくれ、主の復活の喜びと希望に満ちた月でもあります。そこで、この月をマリア崇敬のために祈り続ける信心が伝統として続いてきたのでしょう。
 復活節を過ごす私の心の中は今「イエスの復活」の喜びで満たされている・・・はずでしょう。私たちは、復活節第3主日のミサで「エマオの旅人」のエピソードを読みました。二人の旅人の姿に私はいつも自分を重ね合わせます。「イスラエルを解放してくださると望みをかけていた」人を失い、エルサレムを去り、エマオに向かう二人に、イエスが近づいてきます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と聞かれると、二人は暗い顔をして立ち止まります「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は説明し始めます。この説明は実に見事で、イエスを正しく理解しており、しかも復活の出来事の目撃証言まで、二人は知っています。ところが、彼らは暗い顔をしています。なぜなのでしょうか?
 それは、彼らが「イエスに望んでいたこと」が実現されなかったからです。彼らが望んでいたのは「イスラエルを解放してくださる」ことであって、「復活」ではなかったのです。
 私の望みと神の返答のすれ違い、信仰を生きるとは、この距離を埋めていくことにほかなりません。
神の望みと私の望みが一つに重なるように、イエスが残してくれたものがあります。「主の祈り」です。主の祈りの前半は、エマオの旅人が望んでいた「イスラエルの解放」が、この世で完全に実現された状態を指した言葉です。「神の名が聖とされる」「神の国が来る」「神の心が天に実現されているように、地にも実現される」ことこそ、「真のイスラエルの解放」なのです。
ミサの中で、神の望み、イエスの望み、私の望み、共同体の望みが「主の祈り」において一つになります。そして、それだけにとどまらず、聖体拝領によって、イエスと私たちは体によっても一つになります。この途方もない神秘とありがたさを、表現する言葉はありません。
 にもかかわらず、復活したイエスと食卓を共にした弟子たちのように「恐れと疑いと動揺」の中にいる私がいます。
「どうしてそんなことがありえましょう」
お告げの時のマリアのように、私も思わず口にしてしまいそうです。そんな私に主はきっとこう答えるでしょう。「神にできないことは何もない」と。