わたしが天から降ったパンである
教会委員長 柏木信昭

 6月に入り、梅雨の季節を迎えます。神様から頂く恵みの雨に感謝しながら、主の道を求めてまいりましょう。
 5月25日は初聖体のお祝いで、教会は喜びに包まれました。初めてご聖体を頂いた時の味は一生思い出に残ります。その気持ちをいつまでも忘れないようにしたいものです。
 イエスは「わたしが天から降ったパンである」と言われました。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野という必要な食べ物すらも事欠く状況におかれ、その旅の中で、「マナ」という不思議な食べ物を神様からいただきました。それは「主があなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によっていきることをあなたに知らせるため」でした。イスラエルの民に与えられた神の恵みを、今私たちはイエス・キリストによっていただくことができます。
 ところで、もうひとつ私たちが思い起こさなければならないことがあります。エデンの園の中央に生えている木の果実のことです。私たちの始祖、アダムとエバは、神から「食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」と言われていた果実を食べ、園から追放されました。アダムとエバは蛇に誘惑されました。
 同じように、イエスも悪魔の誘惑を受けます。場所は、イスラエルの民が飢えに苦しんだ荒れ野でした。イエスは、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた時、「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑されました。すると「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によっていきる」と、申命記の言葉で答えられます。
 「食べてはいけない果実」を食べて、エデンの園から追放された人間が、イエス・キリストという「天から降ってきたパン」を食べることによって、神様と共にいることが出来る。この不思議な計らいと恵みが「ご聖体」に結実しています。
 このような逆転は、イエス・キリストの生涯に満ち溢れています。
 私たちのどのような過ちも、主は愛をもって癒してくださるのです。
 ですから、私たちは日曜日にミサに与れない信徒のために、働いていきたいと思うのです。教会は、聖堂に集まる人のためだけにあるのではなく、聖堂に集まることの出来ない人にも喜びを分かち合うためにあります。ドミニコ祭、秋祭り、献堂50周年に向けて、「迎える教会の心」を、ご一緒に深めてまいりたいと思います。